
どうもヤジキタです。
なんか宙組公演『BAYSIDE STAR』で使用されている『海行かば』という楽曲が賛否呼んでいるようですね…
『海行かば』というのは、いわゆる戦中に軍歌として使用された曲ですが、元は万葉集の歌の一部分であり、戦意高揚の為に作られたものかと言うと、まぁ半々と言った所でしょうかね。
作られたのは、いわゆる太平洋戦争開戦よりも前の1937年日中戦争開戦の年です。
戦争の功績を語る時に使われたというよりかは、玉砕を伝える際や、戦死した故人を悼む際に使用されていた事から、軍歌よりも鎮魂曲としての側面が強いという事が、より物事を複雑化させているようです。
まぁ、まずは個人的な意見を述べさせて貰いますと、
そこまで大騒ぎするものではないと私個人は考えております。
批判している人の多くは、
そもそも戦争を礼賛するような軍歌を使用する事自体が不適切であるとの認識や、
一昨年の宙組での事件に関連付けて、死を連想させるような歌詞の曲を使う事自体が不適切という意見が多いですかね。
確かに歌詞だけを見れば物騒とか怖いとか感じるかもしれないが、
そもそも日本人ってそんなに物事を直視しかできない民族でしたっけ?
と問いたい。
海行かば 水漬く屍山行かば 草むす屍大君の辺にこそ死なめかへりみはせじ
海に行こうと、山へ行こうとも、貴方のお側で死にましょう。
我が身など顧みません。
字面だけ見ると天皇の為に死にに行きますと見えるが、大君の側で死にますよと詠んでいるので正確には、
貴方が海に行こうとも、山に行こうとも、私は決してお側を離れません
という精神的な忠義を表していると解釈するのが正しいのかなと思います。
和歌というのは基本的に5音と7音を用いて制限的に詠むので、直接的な表現の裏に隠れた意図を読み取らなければ、歌人の真の想いを読み取る事はできません。
直接的な表現だと貴方の為に死にに行きますと見えるが、実際には、それくらいの覚悟で私は貴方に従います、という表現に過ぎないと私は考えるんですけどね。
こういう表現問題は君が代批判でもよく取り上げられる話なのだが、君が代を批判する人の多くは、
君が代=天皇の世だから天皇制を礼賛する曲であり、国民主権の時代には不適切という意見を述べる。
確かに海行かば同様に戦中には天皇を中心とする国体を象徴するような扱われ方をしたのも事実。
ただこの曲も原詩は古今和歌集のいち和歌であり、詠まれた平安時代においては、君=天皇という認識はなく(大君ならば天皇という意味にはなる)、長者を敬う呼び方だったものが、明治以降に君=天皇にすり替わっていった経緯がある。
故に君が代とは天皇の世であるという考え方自体が、たかが100年程度の歴史の経緯での物事しか見えていない非常に偏った思考、認知バイアスである考える。
日本人って言葉の裏に隠された真の意図を読み解いたり、言葉にはしないが心中お察し致します的な作品を好み親しんできた民族だと思うのですが、ここ最近は本当に字面しか見ない見えない人が増えたよねって感じます…
歌詞だけで批判している人なんかはまさにそれって感じだよね…
どういう意図でこの曲を使ったかは齋藤先生にしか分からないだろうが、単純に軍国主義を礼賛とか言うのは余りにも思考が幼稚過ぎると思います。
結局は本人が語らなければ、他人が何とでも解釈できてしまうのだが、
私個人としては、この場面は色々あった宙組を支えてくれているファンへ贈る歌と解釈致します。
まだ観劇してないものを語るのは難しいのだが、黒燕尾の群舞シーンで桜木みなと1人が歌うらしい。
皆様はこの場面で桜木みなとは誰に対してこの歌を歌っていると考えますか?
歌詞の中の大君とは現代ならばイコール誰になるでしょうか?
私は上記の様に客席に座っているファンなのではないかと想像しました。
君という言葉が長者から天皇の意へと変節したように、今の時代に大君=天皇と考えるのは思考が凝り固まっていると思うので、齋藤先生的には大君を宙組を見捨てなかったファンだと思って歌ってくれと考えているのでは?と想像します。
これが桜木みなとを取り囲む男役達だけが歌うならば、大君=桜木みなととなって、ちょっとトップを持ち上げ過ぎて気持ち悪いかも…って感じるが(笑)、
やはり桜木みなとが歌うならば誰に向けてってなると、そりゃ観客しか居ない訳よね。
色々あっても宙組を見捨てなかったファンの為なら、屍になるくらいの気持ちで側に居続けるますよ(舞台に立ち続けます)って解釈を私はしました。
だからそもそも亡くなった宙組生に向けた鎮魂曲でもなければ、反省とか禊というものですらないと考えますね。
(追悼の想いが全く無いとは言わないが…)
確かに死を連想させるという点ではちょっと不適切かなとも感じますが、あくまでも比喩的にその想いを強く表現すると解釈すれば、そこまで騒ぐのは言葉狩りや表現規制にも近いのでは?と感じちゃいます…
『海行かば』という曲が、いわゆるあの戦争下で広く使われていたのは事実だが、もとを辿れば國體護持にも軍国主義にも全く関係無いものが、狂った時代にたまたま都合よく利用されただけなのに、永遠に口にしてはならぬというのも、おかしな話ではなかろうかね。
作曲されたのは確かに日中戦争が始まったタイミングではあるが、事さらに戦果を讃えるような歌詞でもなく、作曲された当時は『海行かば』=玉砕という使われ方ではなかった訳で(玉砕という言葉が使われ始めたのは太平洋戦争開戦後の1942年頃)、日本人の高い精神性を表現したに過ぎない代物のはずだったと思う。
しかし、この『海行かば』という曲もまた狂った時代の中で都合よく解釈され利用されてしまったのであろう…
それでも戦争に利用された物は封印されて然るべきと言うならば、宝塚歌劇団だって封印されなきゃいけないよね?
宝塚だって戦中には戦意高揚や慰問の為の戦時下公演をしていたのだから、罪があると言われても致し方ないよね?
でもそれを言い出したら、朝日・毎日・読売新聞各社だって、NHKだって、映画界だって文芸界だって、みんなみんな戦争への協力をしていたのだから、全て封印しなきゃおかしいよねってなりませんか?
でもそんな事をしたら、
日本の全ての歴史も文化も否定するしかなくなるし、もはや日本国と日本人全てが消え去るしか方法はないでしょってなるよ…
ヒトラーがワーグナーを好みナチスのプロパガンダに利用していたから、現代でもワーグナーの曲は封印されるべしという意見が世界的に多数を占めてるかといえば、そうではないように、結局何処かで線引きはされて然るべきなのである。
参政党とか言うビジネス愛国カルトがデカい面し始めたタイミングでこの楽曲を使ったのはマズかったとは思うが、だからといってこの曲自体を全否定し、右翼だの戦争讃美だのとレッテル貼りするのも間違いだと断じたい。
解釈は人それぞれあって当然だとは思うが、単純に表面だけ見て批判するのではなく、その意図を深く読み取る努力をした上で批評や論評をして貰いたいなと感じる今日この頃でございます。
東京公演でも変更せずに想いを貫いて貰いたいな!
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